1985年日本一研究 18
2007.04.09 Monday
”二人のあきのぶのコンバート”
1985年に阪神タイガースナインの中で守備のコンバートがあった。偶然にもコンバートされた二人の名前は、ひとりは現阪神タイガースの岡田彰布監督。そしてもう一人は現解説者である真弓明信氏。
字は違うも、”あきのぶ”である。
ムッシュ吉田氏は当時をふりかえり、シーズン前この二人のセンターとセカンドのコンバートの成功を優勝の一因にあげている。
岡田はんは何度か小生の駄ブログにて投稿させて頂いているので、今夜はこちらの”あきのぶ”氏を投稿したい(^-^)/
・真弓 明信(まゆみ あきのぶ)
愛称はジョー
1979年に田淵幸一氏らとの世紀のトレードで阪神タイガースに移籍。
1番打者でありながら本塁打を打ちまくり、堅守・俊足で打率・打点・本塁打ともに下手なクリーンナップをはるかに凌ぐ成績を残し、1番打者の常識を根底から覆しました。そのため、世界の盗塁王福本豊氏とともに「史上最強の1番打者」「脅威の核弾頭」と呼ばれました。
1985年に岡田はんとポジションを入れ替える形で外野手に転向、同年打率.322、34本塁打の好成績でリーグ優勝・日本一に貢献。1994年には代打の切り札として17安打で30打点と驚異的な勝負強さを発揮。1995年限りで引退。
奇しくもこの年に岡田はんもオリックスブルーウェーブの選手として優勝を経験して、ユニフォームを脱いでます。
本日も親愛なる虎ブロガー『神戸岡田頑張れ会☆』さんから当時を回想された貴重なコメントを頂戴いたしました。↓↓↓
85年の日本一の事についてということですが、その当時は甲子園にも行った事がなく、ナイターも見れず(家族が誰も野球に興味がなかったため)プロ野球ニュースを見るのだけが楽しみでした。
記録は皆さんのほうが詳しいと思いますので、私は記憶に残っていることをお話したいと思います。
85年のことではありません。
それから10年後阪神は暗黒時代にありました。ちょうど阪神大震災の年ですね。甲子園に向かう足も遠のき、その頃「頑張ろう神戸」を合言葉にオリックスが盛り上がっている頃、優勝の喜びから遠ざかっている阪神ファンが、どんどんオリックスに流れていきました。私も真弓さんが引退すると聞いたときには一緒に阪神ファンをやめようと思っていました。そんな時、がら空きの甲子園球場のお立ち台で真弓さんがこう言ったのです。「今、ここに来ている人たちが本当の阪神ファンです」
真弓さん目を真っ赤にしていました。私は頭をがーんと殴られた気がして、こんなに真弓さんが阪神を愛してるんだから私も一生阪神ファンでいようと誓いました。↑↑↑
感動的なコメント本当に有難うございますm(_ _)m
今シーズン頑固な岡田はんは周囲の反対を押し切り、一番に鳥人鳥谷君を指名したのは、間違いなくこの脅威の一番打者真弓氏の再来を期待されていますね(^-^)/
真弓氏の輝かしい実績を記します。
・首位打者 1回(1983年)
・ベストナイン 3回(1978年遊撃手、1983年二塁手、1985年外野手)
・日本シリーズ優秀選手賞 1回(1985年)
・初回先頭打者本塁打 41本(歴代2位)
・5試合連続本塁打(1980年6月25日〜7月6日、1986年7月1日〜7月6日)
・代打30打点(1994年 日本記録)
・サイクルヒット(1979年5月20日)
・オールスター出場 9回(1978年、1980年〜1982年、1985年〜1988年、1991年)
リポーター:アナフレ猛虎会『神戸岡田頑張れ会☆』
参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
画像:『阪神タイガース70年史』ベースボールマガジン社
☆頑張れ阪神タイガース☆
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