1985年日本一研究17
2007.04.02 Monday
”日本一になった第4代ミスタータイガース(^-^)/”
ボヤキの野村現楽天監督が、阪神タイガース監督時に当時のオーナーであった久万俊二郎氏にボヤいたエピソードを思い出します。”7番、8番バッターは育てられますが、4番バッターは育てられません。過去の阪神の四番バッターを振り返ってください。バース、田淵、、山内、藤村…皆スラッガーとして獲得してきました。ドラフト下位で指名(正確にはドラフト外)で4番バッターにまで成長したのは、70年の球団史の中で唯一掛布だけです。彼のような打者が誕生するまであと70年待ちますか”
この会談を機に球団の姿勢が変わり、今現在の不動の四番打者金本選手を獲得に至った経緯はあまりにも有名ですね。
さて話題をミスターにもどします。
掛布 雅之氏
4代目ミスタータイガース。
ドラフト6位指名で契約金500万円年俸84万円で1973年入団。
高卒1年目にして1軍定着。1976年に3割を記録してブレークし、その年のベストナインに選ばれる。
しかし氏にとって大きな転機となったのは、1979年の田淵幸一氏の移籍であります。この事件を機に一躍主砲として白羽の矢が当たり、事実チーム新記録となる48本の本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男氏の46本。1985年にランディ・バースが54本で更新。しかし、現在でも日本人選手の球団記録。)を放ち、本塁打王となりました。
それ以降、1982年、1984年にも本塁打王、1982年は打点王にも輝くなど「ミスタータイガース」として君臨します。
また、同学年でもある江川卓氏との対決で、数々の名勝負も忘れられませんね(^-^)/
もともとどちらかといえば中距離打者だった掛布氏が長距離打者となったのは、恵まれていない体格を補う猛練習による強靱な体力(特に手首)で打球をスタンドまで叩き込みました。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因となったともいわれています。
甲子園でホームランを量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへホームランを量産する掛布独特の芸術的な流し打ちを身につけた。以後レフトへのホームランが飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。
1985年の優勝時には3番ランディ・バース、4番掛布、5番岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、優勝に貢献した。1985年のバックスクリーン3連発ではバースに続いてホームランを叩き込み、この年の象徴のように語られている。日本シリーズ最終戦に西武球場で打ったホームランも、レフトポール直撃の芸術的なホームランでしたね(^-^)/
1986年4月、中日戦で手首に死球を受けて不振に陥り、実質これが選手生命を絶たれる原因となりました。それ以降華麗なバッティングは影を潜め、故障続きでかつての打棒は甦らず、1988年33歳という若さで現役を引退されました。
もし掛布氏がイチロー選手のような中距離ヒッターであれたならもっと長く縦縞に袖を通されていたやもしれません。又、まったく無名だった青年が、努力と信念で四番打者にまで成長する選手がこれから現れるかどうかも疑問です。
引退以降、現場復帰をされていない事は、本人以上に私達虎党も口惜しいばかりです。
とともに、1日も早く第5代ミスタータイガースの出現を期待して(^O^)/
参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
画像:剛打列伝2 文春文庫
撮影:アナフレ猛虎会『頑張れ阪神タイガース☆』
撮影日:07年4月1日
☆頑張れ阪神タイガース☆
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コメント
まだまだ現役でやれるのに、怪我が怖くてやめたとか、
読売の解説になった事で裏切られたような気がするんでしょうか。
同じ読売の解説でも川籐は嫌われないのに・・・
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