猛虎かく勝てり2
2006.05.29 Monday
不屈の男 金本 知憲 その2
先月の日本経済新聞に金本知憲選手の特集が連載されてました。
題して「駆ける魂」o(^-^)o
スポーツライター浜田昭八氏による連載記事です。
アナフレ猛虎会同志からわざわざ切り抜きを頂戴いたしましたm(_ _)m有難うございます。小生の拙い日記ですが、皆皆様の絶大なるご支援により支えられております!この場をおかりしてあらためて御礼申し上げますm(_ _)m
さて本日はその記事から、兄貴金本の決して順風ではなかった野球人生を振り返ります!
1992年の広島入りはいわゆる"ハズレ四位"
ドラフト下位指名の出世組はあのイチロー選手が有名ですが、日米野球で三番を打った即戦力外野手の金本にとって、1位は日米野球で四番を打った現阪神タイガースの町田外野手。2位〜4位は高校生であり、4位指名選手の投手が他球団と重複指名となり、クジでハズレた広島がやっと地元広陵高出身の金本選手を指名する屈辱まみれの入団となりました。
広島県広陵高等学校では外野手兼三塁手兼投手として2年からクリーンアップに座り、自身は高校通算20本塁打の活躍をするが、広陵高校の低迷期、特に投手力が弱い時代で甲子園出場は叶いませんでした。
当時は法大志望であったが、手続きの不備が理由で断念。
浪人中は母校広陵高校で練習したそうです。
又、この浪人時代にヤクルトの入団テストを受けましたが、またも不合格。
失意の中、知人から当時はまったくの無名だった東北福祉大学を紹介され、野球推薦ではなく一般受験で合格しました。
しかし、1年次からレギュラーを獲得し佐々木主浩氏(後に大洋入団)、大塚光二氏(後に西武入団)、矢野輝弘選手(後に中日入団)、斎藤隆選手(佐々木と同じく後に大洋入団)、浜名千広氏(後にダイエー入団)らと共に活躍。
1988年第37回大学選手権では決勝で近畿大学に惜しくも逆転負けを喫するが、準優勝に貢献しました。
以降、主力として4年連続で大学選手権に出場、翌1989年の第38回大会では連続優勝した近畿大学に再び3回戦で敗れ、第39回大会でも決勝戦まで勝ち残ったものの小池秀郎氏、高津臣吾選手、川尻哲郎氏ら好投手を擁する亜細亜大学に敗れてしまいます。
しかし、4年次の第40回大会(1991年)では3度目の決勝戦進出を果たし、関西大学を相手に延長17回熱戦を繰り広げ、ついに念願の初優勝。
左手首のはく離骨折という大怪我を抱えながら勝ち越しの2点タイムリーを放った金本選手は、東北福祉大初優勝の立役者となりました。
同年、第20回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、チームの勝利に貢献しました。
このような実績をひっさげてのドラフトエントリーにも関わらず、前記しましたが、ハズレ四位指名の屈辱を受けます!
因みに他球団がクジで引き当てた4位指名投手は9年間在籍するも、一軍登坂ゼロで2000年に引退。不思議な因縁の町田選手は今又同じ縦縞ユニフォームを着て代打の切札として期待されてますが、今シーズンはまだ一軍登録されていない。
金本兄貴はチームを引っ張る主砲として、いや、球界を代表する四番打者として昨年MVPに選ばれるなど、彼の活躍無くして阪神の躍進は有り得ません!
14年前に誰がこの様な展開を想像したでしょうか!
次回は入団から今日に至るまでの兄貴にせまります(^_^)v
参考文献:日本経済新聞「駆ける魂」浜田昭八
資料提供:アナフレ猛虎会『濱ちゃん気になる〜☆』
フリー百科辞典『Wikipedia』
画像:金本知憲外野手
撮影:アナフレ猛虎会『広報部長☆』
☆頑張れ
阪神タイガース☆
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