巨人V9研究その8
2006.04.10 Monday
本日は投手陣を解剖します。
その5で前記しましたが、1960年当時の投手陣は、リーグ最多勝の29勝18敗で沢村賞と新人王の堀本律夫氏が光ってましたが、他に二桁勝利を挙げたのは2年目の伊藤芳明氏一人で、あとはこの年限りでマウンドを去ったベテランの別所毅彦氏が9勝という状態で、とても層が厚いとはいえない状態でした。
いわゆる世代交代の波に襲われていたのです。
1964年12月に球界を代表する350勝投手・金田正一氏が入団。監督就任以降、1・3・1・4位と一向に定まらない成績に物足りなさを感じていた川上監督は金田という大物の入団でチームに活を入れようとしました。
弱小チーム国鉄でワンマンと呼ばれた金田氏の入団は、それまでの巨人に一石を投じることになります。
とにかくケタ違いの練習量と、キャンプの宿舎にまで鍋釜を持ち込む徹底した自己管理。
金田氏は実働5年で47勝という成績を残して引退されますが、氏が巨人に持ち込んだのはその強烈なまでのプロ意識でした。
1965年、藤田氏という大エースを失った巨人の最大の課題は投手陣でありました。
金田氏という大黒柱の入団はあったものの全盛期とはほど遠い投球内容しか残せません。
とにかく9回を保つ投手に事欠く有り様の投手陣に、川上監督は苦肉の策として一人の投手を抜擢します。
類希な速球をもちながら、心臓に持病を抱え、短いイニングしか好投できない宮田征典氏をリリーフ専門の投手として起用しました。
ここに“8時半の男・宮田征典”の誕生であります。
セーブポイントや、リリーフエースなどの言葉すら聞かれない時代に、宮田氏は5月以降100試合の内67試合に登板。現在のセーブポイントで言えば41SPを上げるのです。
昨年日本記録を樹立した球児君が146試合で80試合の登坂、ジェフが75試合、久保田君が68試合で27SPの数字と比べてみても、宮田氏の活躍はJFK三人分に劣らぬ顕著な功績が伺えますね!
ここに、日本のストッパー制度の原点となるリリーフエースの誕生です!
この年よりON、柴田、森、金田、そして宮田らの活躍で巨人のV9がスタートします。
65年には高橋一三氏、翌66年には悪太郎こと堀内投手が入団し、左右のエースが誕生しました。
川上巨人は、この左右の両エースを中心に、金田氏やその他の投手陣をくわえて、今では当たり前となった、先発ローテーションスタイルを確立。
当時は、主軸投手が先発完投!先発しなかった日は、リリーフで登板するのが通例だった時代でありました。
ちなみに、日本プロ野球のシーズン記録は、『神様、仏様、稲尾様』とよばれた、稲尾和久氏が持つ記録がずば抜けています!最多連勝(1957年、20連勝)、月間最多勝(1962年8月、11勝)、最多勝(1961年、42勝)
当時は先発投手がリリーフまで務めたフル回転の時代だからこその記録でしょうが、あまりの凄さには仰天しますね!まさに『鉄腕』おそろしやです!
昨年我等が阪神タイガースの藤川球児君に更新された最多試合登板(1961年、78試合)も、先発・リリーフ双方をつとめた1961年に、最多勝(42勝)を伴って達成された大記録であることも紹介させていただきます。
先発投手ローテーションと、リリーフとの分業化に成功したのが巨人軍の強さの秘密でもありました。
最近では、中継ぎ投手も出現して、ホールドという言葉も生まれてきましたが、投手ローテーが当たり前の時代であり、300勝投手などはありえない時代にもなりました。
がしかし、先発投手-中継ぎ-クロ−ザーの活躍なくして優勝はありえません。
分業化が当たり前になった時代だからこそ、セーブポイントや、ホールドのようなどんどん新しい記録を取り入れて、投手の評価をもっともっと高めていただきたいものです!
なぜか打者のほうが年棒が高いのが気になるもので・・・・・_(_^_)_
参考文献:『20世紀スポーツ最強伝説(3)Sports Graphic Number plus』文藝春秋
☆頑張れ阪神タイガース☆