1985年日本一研究19
2007.04.16 Monday
”天国から地獄への転落”
1985年11月2日土曜日九回裏二死。西武の打者秋山選手の左に飛んだ打球を打ち取ったと思った川藤選手がひとりでグランドに飛び出して恥をかいたのは語り草(^O^)左前安打。続く伊東選手はピッチャーゴロ。今度は間違いない!ゲイル投手がキッチリ取ってバース一塁手へ!
吉田監督に続いてこの日はゲイル投手、真弓外野手、山本投手が宙に舞った。
当時の川藤選手のインタビューが印象に残る「出番がなかった?そんなもん関係ないわ。みんなで勝ったんや。みんなで優勝したんや」
当時最強と呼ばれた広島の「機動力野球」と、西武の「管理野球」を、打線の破壊力と弱小投手陣の小刻みな継投とスタンドの熱気の「一丸野球」が打ち砕いた正に奇跡のシーズンだったといわれた85年の日本一。
21年ぶりのリーグ優勝、そして初の日本一。「次の優勝は2006年か……」とファンたちはこの時は冗談を言っていたものだがまさかそれが現実になろうと誰がこの時点で予想しただろうかo(^-^)o
翌年はミスタータイガースが怪我で欠場すると、またまたく間に最下位に転落。なんとか持ち直して三位になるも、怪物バース選手の二年連続三冠王だけが話題となるシーズンに。
この年のオフ燃え尽きた「浪速の春団治」こと川藤氏がバットを置く。10月14日、バース選手が日本最高記録の三割八分九厘を確定した最終戦、川藤氏はナインに胴上げされて甲子園をさりました。
翌年の87年、監督の吉田義男氏が解任。41勝83敗6引分。勝率なんと三割三分一厘でぶっちぎりの最下位。
翌88年にはバース氏と掛布氏もタイガースを去り、以後所謂暗黒時代に突入します。
ムッシュ吉田氏は当時を自身の著書で回想します。85年は阪神も私の人生もピークに達していた。しかしそのまま放っておけば、あとは下がるしかないということ。
日本一という結果におごらず、より強いチームを目指して、補強の大鉈をふるわなければならないことがわかっていながらできなかった自分の甘さを悔い、日本一の感激を味合わせてくれた男達に引導を渡したり、他チームに移籍させたりすることができなかったことを…
参考文献:『猛虎伝説』上田賢一著 集英社新書
『阪神タイガース』吉田義男著 新潮社
画像:川藤 幸三氏(右)
撮影:アナフレ猛虎会『応援団長☆』
撮影日:06年2月1日
場所:沖縄宜野座村野球場
☆頑張れ阪神タイガース☆
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