訃報です
2006.07.17 Monday
■2006/7/17 試合結果対巨人 10回戦 甲子園雨天中止
――――――
◇伝説の男逝く
プロ野球元巨人の投手で、『8時半の男』の異名をとった宮田征典氏が13日肝不全のた死去されました。
享年66歳。
近代野球のストッパーの先駆けとして活躍し、引退後は巨人の投手コーチを3度計15年間も務め、テニスラケットを使ってひじの使い方を教えたり、遠投重視の練習法など、卓越した理論で、斎藤氏、槙原氏、桑田投手の3本柱など多くの投手を育てあげました。
また西武、中日、日本ハムでも投手コーチを務められ、西武では渡辺久氏や工藤投手、中日で野口投手、川上投手…など、宮田氏の理論にふれることで、エースへの階段を駆け上がった投手は数しれません。
後楽園球場の大時計が8時半を指すころになると、マウンドには宮田氏がいました。だから
『8時半の男』
1965年、巨人栄光のV9の最初の年を支えたのが宮田氏です。
69試合に登板し、20勝5敗。そのうち19勝が救援勝利で、当時はセーブの記録がなかったものの、現在の計算法では22セーブをあげたことになります。
近代野球でいう「ストッパー」として投手分業制のパイオニアといえる存在でした。
僣越ではございますが小生の日記『巨人V9研究』の章でもご紹介させていただきましたm(_ _)m
幼少のため氏の当時のご活躍の姿は映像でしか知りえませんが、故村山実投手のフォームを感じさせるダイナミックな投法ですね。
実際に大活躍したのは65年の1シーズンでしたが、それでも『8時半の男』という名前がいまだに語り継がれている理由は、勝ち試合で必ず登場することで、ONに引けを取らない存在感があったからだと語り継がれています。
最後の仕事は愛弟子の巨人・桑田投手が600日ぶりに勝利を挙げた、4月13日の広島戦のラジオ解説だったとききます。
謹んでご冥福をお祈りいたします
撮影:アナフレ猛虎会『広報部長』
場所:小石川植物園
頑張れ
阪神タイガース
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◇伝説の男逝く
プロ野球元巨人の投手で、『8時半の男』の異名をとった宮田征典氏が13日肝不全のた死去されました。
享年66歳。
近代野球のストッパーの先駆けとして活躍し、引退後は巨人の投手コーチを3度計15年間も務め、テニスラケットを使ってひじの使い方を教えたり、遠投重視の練習法など、卓越した理論で、斎藤氏、槙原氏、桑田投手の3本柱など多くの投手を育てあげました。
また西武、中日、日本ハムでも投手コーチを務められ、西武では渡辺久氏や工藤投手、中日で野口投手、川上投手…など、宮田氏の理論にふれることで、エースへの階段を駆け上がった投手は数しれません。
後楽園球場の大時計が8時半を指すころになると、マウンドには宮田氏がいました。だから
『8時半の男』
1965年、巨人栄光のV9の最初の年を支えたのが宮田氏です。
69試合に登板し、20勝5敗。そのうち19勝が救援勝利で、当時はセーブの記録がなかったものの、現在の計算法では22セーブをあげたことになります。
近代野球でいう「ストッパー」として投手分業制のパイオニアといえる存在でした。
僣越ではございますが小生の日記『巨人V9研究』の章でもご紹介させていただきましたm(_ _)m
幼少のため氏の当時のご活躍の姿は映像でしか知りえませんが、故村山実投手のフォームを感じさせるダイナミックな投法ですね。
実際に大活躍したのは65年の1シーズンでしたが、それでも『8時半の男』という名前がいまだに語り継がれている理由は、勝ち試合で必ず登場することで、ONに引けを取らない存在感があったからだと語り継がれています。
最後の仕事は愛弟子の巨人・桑田投手が600日ぶりに勝利を挙げた、4月13日の広島戦のラジオ解説だったとききます。
謹んでご冥福をお祈りいたします
撮影:アナフレ猛虎会『広報部長』
場所:小石川植物園
頑張れ
阪神タイガース