巨人V9研究その10 不世出の名参謀
2006.04.17 Monday

本日は、巨人V9にかかせない名参謀、故牧野茂氏を紹介します。
牧野 茂(まきの しげる、1928年7月26日)香川県生まれ。昭和中期(1950年代)のプロ野球選手。内野手、右投右打、元読売ジャイアンツヘッドコーチ、元野球解説者。1991年野球殿堂入り。1961年シーズン途中に巨人軍に入団。ここに33歳の青年コーチの誕生とともに、川上監督との運命的な出会いが、巨人ならず日本のプロ野球史を塗りかえることになります!
この年の巨人のキャンプはドジャースの本拠地アメリカのベロビーチで行われ、牧野氏はあの名書の『ドジャースの戦法』を携え、且つ丸暗記をされて、チーム帰国後もアメリカに残り、組織野球戦法の研究に努められます。そしてその成果は1965年からスタートする9連覇という形に現れるのです。
以後ヘッドコーチとして活躍。川上巨人の名参謀として監督の絶対的な信頼を得た牧野氏の野球理論とは…
牧野氏の著書『巨人軍かく勝てり』より、ここでは「バントシチュエーションⅡ」を紹介します。
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ノーアウトランナー一、二塁の場面で、ピッチャー堀内に「Ⅱのシフトだぞ」と王が耳打ちしているその背中が二塁を向いている(一塁を向いたときはシフトⅠ)スタンドでは「王が堀内を激励しているよ」と見てる時、ベンチ-王を経由した防衛レーダーが無言のうちにナインに伝わっているのである。
ショートの黒江がいまにも二塁ベースへ駆け込んだあと、三塁へ
突進するごとくダッシュした。走者がその動きにつられてリードを大きくした。この時、二塁手の土井がススッと足音を殺して二塁ベースに入りかける。その動きを捕手がサインで堀内に知らせる。堀内は間髪を入れずクルッと体を捻って二塁ベースへ速いタマを投げる。このトリックプレーにも似たピック・オフ・プレーは森-堀内-土井の十八番だった。絶品といってよい名チームプレーで、川上さんはV8の年の夏の阪神戦で、これをやるために捕手を吉田から森にわざわざ代えて、交代した1球目にものの見事に二塁走者を殺した事があった。
このプレーは、必ずしも走者を殺せなくても良い。…無死一塁の時のトリックプレーは王が前進して投手がウエストボールを投げて、一塁に土井が入って走者を殺す…と同じように、走者のリードを少なくするだけでも効果は十分なのである
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その他、牧野氏の功績を挙げます。
三塁コーチャーズボックスにコーチが立って選手にサインを送る。今では珍しくない事でありますが、これを最初に実践したのは牧野氏です。監督がコーチに作戦を指示し、それをコーチがブロックサインで選手に送る方式は、V9時代の牧野氏がパイオニアです。
前記しましたが柴田勲氏のスイッチヒッターへの転向や、ケガや病気による選手の二軍調整(ゴールデンルーキーの高田氏を二軍に落として鍛えた逸話は有名です)など、現在のプロ野球の常識となった事柄の数々が、不世出の名参謀の手腕であみだされたのです。
川上監督の勇退を受け、1974年に退団。その後は東京放送の野球解説者(1975年~1980年まで)として活躍。
理論的な解説は、精神論中心の解説者が多かった中で異彩を放ちファンの人気を集めました。
長嶋氏が巨人の監督を解任され、王氏が現役を引退した1980年オフ、故藤田元司氏の監督就任が決定とともに、藤田氏に誘われ、再びヘッドコーチに就任。翌年藤田監督、王助監督、牧野ヘッドコーチの「トロイカ体制」が見事に当たり、ルーキー原氏、中畑氏、篠塚氏、江川氏、西本氏らの活躍で巨人は日本一の座に返り咲きます。1973年、あのV9最後の年以来の日本一でした。
しかし牧野氏の体はすでに病魔に蝕まれていました。1981年のオールスター戦のさなか、診察を受け結果は膀胱ガン。しかし今入院すればチームに迷惑がかかると、手術はおろか、入院を拒否。シーズン終了後、ようやく手術を受けます。
1984年、王氏の監督就任に伴い牧野氏はユニホームを脱がれます。5月再び手術を受けるも、もはやそれは手遅れでありました。
1984年12月2日、牧野氏の人生はゲームセットを迎えました。享年56歳。
氏は薄れゆく意識の中で最後にこう呟いたとのこと
…「スエッ!1番松本…(末次コーチ、1番打者は松本だ)」
最期まで巨人を愛し、ヘッドコーチであり続け、野球に人生の全てを賭け、巨人に全身全霊を捧げた牧野茂氏。
小生今回の研究を通じて、改めて巨人の強さの秘密と伝統の重みを学ばせて頂きました。そして、益々我等が阪神タイガースがこの巨人を倒し続ける事が、どれほど素晴らしく、価値あることなのか!これぞ常勝タイガースの使命であることも(^_^)v
生前の牧野氏の言葉です
「この道より歩く道なし」 牧野茂
参考文献:『巨人軍かく勝てり』牧野茂著
文春文庫
☆頑張れ阪神タイガース☆